記憶ではなく記録しておくことの大切さ
新型コロナウイルス感染拡大で、毎日押し寄せてくる情報の波に飲み込まれながら過ごしていると、東日本大震災のあとの状況と良く似ているなって感じる。2011年当時は、イベントや祝賀行事の「自粛」や、消費行動自体が「不要不急」とされたと記憶している。今回の新型コロナウイルスの感染広がりでは同じ「自粛」や「不要不急」でも使い方が異なっていて、主に外出や外食、会合などに使われいる。国難の時はこの二つのキーワードが良く使われるんだろう。2011年当時の僕の所属したブランドのデザイナーズブログを久しぶりに読んでみると、それらに対する記述が多く出てくる。
東日本大地震発生から1ヵ月後の2011年4月10日のブログ「タイトル:桜に想う正直な気持ち」では、「遂に東京の桜も満開で、極寒の冬ともやっとお別れの時期がやってきた。例年ならこの時期は、春の訪れとともに、購買意識が増加して、ボクらの生きているファッション業界は、めっちゃエキサイティングな時なんだけど…。今年は全く違う空気が漂う」から始まり、「東日本大震災に伴う自粛ムードは、まさに2次災害だと強く感じる」と続く。震災直後はファッションは「不要不急」とされ百貨店やファッションビルは閑散とし、街にもひとが集まらなかった。さらにブログは「ジリ貧の一途を辿る日本でいいのか?バブル崩壊以降の凋落する日本のままでいいのか?この大地震で受けた人的、物質的、経済的ダメージを、甘受するに留まっていいのか?世代的にも経済的にも時代の中心にいるボクらが、深いダメージを受けた日本を、多いなる消費によって盛り上げなくて、いったい誰が盛り上げんの?」と読者に疑問を投げかけてる。とにかく閉塞感でいっぱいの状況を打破したい気持ちがひしひしと伝わってくる。続いて「応援消費。ボクらはモノを創造して、作って、売る方でもあり、逆に、自分の分野と違うものは、買う方でもある。ファッションの分野は、不要不急であるのは事実だけど、戦後の復興と成長、そしてその後の成熟を迎えられたのは、まさに不要不急なものの創造と消費だったではないか」と論じる。そして「今ボクらは、明るく楽しく元気よく、笑顔で立ち上がって、自粛とは真逆に沢山のイベントに足を運び、ブッ飛び、(モノを)消費していかなきゃならないって、大声で叫びたい。それがまさに被災された多くの方々の力になる真実の方策だって、強く意識します」と締めた。なぜこのような内容を当時所属したブランドのデザイナーズブログに書いたのかは良く覚えていないんだけど、おそらく僕たちが初めて経験する国難時における「自粛」「不要不急」の国内のムードの感覚を、忘れてはいけない事実として書き残しとかなければとの強い思いがあったのだろう。悲壮感で包まれた内容ながら9年前の僕は我ながら力強い。
この1ヵ月前の地震発生から2日後、2011年3月13日のブログ「タイトル:現在」では、地震発生時の僕の周辺ことを書き留めている。「その時ボクは出張で、企画チームのNくん、Iくんと姫路にいた。商談も終え、ちょうど帰途に着こうというところで、東大阪の仕入先のTさんから、大地震発生の連絡があってびっくりした。すぐにiPhoneでニュースを確認すると、宮城県沖でマグニチュード8.8、東京で震度5強(いずれも発生当時の発表)。東京に連絡してもその時点では誰とも連絡取れないし、みんなの安否がすごく気になった」と始まり、「(当時僕が乗っていたディスカバリーで)16時半に姫路を出発。中国、名神、東名と通過して、通行止めとなった清水IC.から下道に降りたのが深夜1時半。山道を北上後、甲府から中央高速に乗り継いでひと晩かけて首都圏に突入。(中略)姫路から15時間後に自宅に戻った」と続く。さらに「幸い、東京にいるプライベート・会社関係各位はみんな無事。営業チームのMくんは有楽町での商談後地震発生。表参道まで1時間半かけて徒歩で帰社。地下鉄表参道駅構内にいたYくんは、立っていられない状態でホームがぐねぐねウネっているのを目撃。MくんやIさんは、プレスルーム内でパニック状態に。3Fのミシンが倒れ、床を突き破った」と当時のスタッフの実体験を書き留めている。「スタッフは夜になって、徒歩で帰宅したり車で7時間かけて帰宅した。僕の個人事務所のHさんは私鉄の復旧を待って会社に留まった」と続く。さらにブログは東北地方の得意先のことや、過去のスタッフで宮城県に戻った同僚の無事などが書き込まれ、「皆様の無事を心より祈っています」と中締めされている。
さらにブログは当時主流になり始めたSNSやデバイスに関しての記載もある。「姫路よりの帰還道中、スタッフとはFacebookで安否連絡。携帯メールやWebメールのGmailまでもがほぼ通信不可or遅延受信の中、Facebookは全く問題なし。さらに今乗ってるディスカバリーにはテレビがないから、Twitterからのリツィートがかなり役立った」と書かれ、「車内ではiPhoneでユーストリーム経由でNHKを見てたし、インターネット電話のViberで、容易にみんなと連絡が取り合えた。通行止めとなった(東名自動車道の)清水IC.から、中央高速までの北上ルートも、iPhone上のGoogleマップなしでは、あり得なかった」と続く。そういえばユーストリームってあったよ!懐かしい。あとViberはネット電話の走りのアプリで、主に海外から日本に電話するときに無料なのでよく使った。さらに「緊急災害時、Facebookやtwitter、iPhoneというニューメディアやデバイスは、テレビ、ラジオ、新聞というこれまでのメディアに引けを取らない事が良く分かった。それこそメディアの世代交替」と言い、今となってはなくてはならないSNSやスマートフォンを大いに活用したことを書き残している。このブログの終わりには「余震や福島原発が予断を許さない事態」としながら「東名や中央、関越や東北など、首都圏に繋がる高速が全部通行止めになったから、東京のスーパーは既に品薄&人だかり。東京電力から輪番停電のインフォメーションが出始めてるんで、ホームセンターも懐中電灯や電池が売り切れ」と当時の街のスーパーやホームセンターの緊迫した状況が書かれ、新型コロナウイルス感染拡大による「パニック買い」に酷似した内容が記述されている。最後に「東北地方の被災者の方とそのご家族の方々の事を思うと、心が割れそうになるし、言葉が出ないのと、食事がのどを通らない。心よりお見舞い申し上げます。今後、まだまだ余震など、予断を許さない状況。お互い、充分に気を付けましょう」と締められている。
当時所属したデザイナーブログは随分前に閉鎖されているんだけど、facebookの「ノート」に別途保存していて、久しぶりに開いてみてその読み応えある内容に自分の書いた文章ながら驚いた。記憶は改竄されるけど9年前の震災真っ只中に書き残された記録は実に生々しい。
前回のブログで、外部チームとはChatwork、グループ内はTeams、プライベートはLINEといった感じでコミニュケーションツールの使い分けがはっきりしてきたって書いた。東日本大震災の際にコミニュケーションツールがメールやSMSから、facebookやtwitter、LINEに変化していったのとよく似ているとも書いたけど、災害や感染症蔓延のパニックといった国難時は、既存のツールから新たなツールへの劇的な変化とリセットが起きるキッカケになるんだろう。そして「自粛」や「不要不急」って言葉が飛び交い世の中のムードが一変することを、今回もまた記憶ではなく記録しておかなければならないと強く感じているところだ。