2020年に楽しみにしていたこと〜その1

2020年に楽しみにしていたことが次々に中止か延期になってる。そもそも東京オリンピックのチケット第一次抽選で当選して楽しみにしていたマラソンの競技会場が、突然札幌に移転するっていう話が出た昨秋あたりから何とも言えない不穏な空気が流れ始めてたんだけど、コロナの出現で一気に先が見えなくなって、イヤな予感は見事に的中。これは僕に限ったことではなく全ての人に降りかかって来た災難で、楽しみにしていた予定がいつ再開されるのかが現時点では不透明なだけにフラストレーションがたまる一方、同じ量のモヤモヤした不安感も常に心の中を漂い続けてる。ここは一旦自分のなかで整理する意味でも中止や延期なっている「楽しみにしていたこと」を挙げてみよう。

ANTHEM35thアニバーサリーツアー:これは本当に残念だ。ANTHEMは僕が中学3年だった1985年から聴き続けている唯一無二のバンド。1992年に一旦解散し2001年に再結成して現在も活動中で今年がデビュー35周年。これまで数え切れないくらい彼らのLIVEツアーには足を運んだけど、要となるLIVEや後に変化のきっかけになったLIVEは必ずと言っていいほど観てきた。

1987年春の「Bound to break」ツアーでは僕は友だちと一緒に高校をサボって地元大分のLIVE会場のSTUDIO OTISの前でANTHEMの「入待ち」をしていた。昼前にツアーバスで会場に到着したメンバー達は、入待ちをしている僕と友だちに楽器運びを手伝わせてくれて、そのお礼にと楽屋に入れてくれた!憧れのメンバーたちとのふれあいにチビりそうになったけど、僕は嬉しくて夢をみているようだった。LIVEが終わり片付けも終わったあと、ヴォーカルの坂本英三は僕たちに向かって「お前たちのことは絶対に忘れない」って言い残して次の目的地の佐賀へ向かって旅立っていった。その年の夏にバンドはアメリカLA公演を果たし凱旋帰国後、初の渋谷公会堂(以下:渋公)公演を終えさらなる成功に向かおうとする中、突然英三はANTHEMを脱退した。バンドへの責任感からくるプレッシャーと過酷なツアーによる疲労が脱退の理由だった。「お前たちのことは絶対に忘れない」って僕たちに言い残したのは、その時すでに脱退を決意していたからこそ出てきた言葉だったんだ。その言葉の重みに若かった僕は何度も涙した。

1989年の「Hunting time」ツアーでの渋公でのLIVEはセットリストや演奏クオリティは完璧だったんだけど、この時期はジャパニーズ・ヘヴィメタル・ムーヴメントに陰りが見え始めていたこともあり1F席は埋まっていながらも2F席は空席が目立った。新ヴォーカルの森川之雄を迎えての汐留PITでの初LIVEは入りきれないほどのオーディエンスで埋め尽くされ、東名阪の2000人規模のホールを満杯にしてきたANTHEMでも時代の流れには逆らえず、90年以降は1000人キャパのクラブチッタ川崎(以下:チッタ)に聖地は移っていった。その後渋公は2015年に閉館し解体されたので、正真正銘ANTHEMの最後の渋公公演となった。

1989年暮れの品川寺田倉庫F号でのRockin'fイベント"ENFANT TERRIBLE"ではでメジャーデヴューを間近に控えたGRAND SLAMを前座に貫禄のトリを努めながらも、ステージ上でギタリストの福田洋也がプレイ中にリーダーでベースの柴田直人に向かって暴言吐いてるっぽい(汗)。LIVE開始して間も無くPAの調子が悪くギターの音が切れたするアクシデントもあったんだけど、リーダーに向かってそんな態度取ったらダメだろ〜ってLIVEを観ながらヒヤヒヤしたし、その時のバンド内の不穏な空気が手に取るようにわかった。その後福田洋也はニューアルバム「No smoke without fire」のレコーディングには参加したものの、新作に伴うツアーがスタートした直後に脱退。寺田倉庫でのLIVEは東京で洋也を観る最後のLIVEとなった。

1990年の大阪花の万博でのハードロックイベント"LIVE ZEAL-ROCK BOMBS EXPLOSION"ではドラムのMAD大内が長年の過酷なロードで負傷した腕(指?)が悪化して苦しみながらプレイする姿を目の当たりにした。リムショッットを多用するMADのドラミングは左手の親指に相当な負担がかかる。しかもANTHEMはアマ時代から年間200本以上のLIVEを演ってきてて、この頃についに身体にガタが出て来たんだと推測。共演したGRAND SLAM、DEDCHAPLIN、EARTHSHAKERとのセッションにもMADは登場せず、MADの大ファンだった僕は相当心配した。その後のツアーの映像をみるとMADはショットのフォームを変えながら未だにパワードラムを続けている。

1992年3月に「Domestic booty」をリリースし東名阪で数本LIVEをするも5月には解散が発表された。中学時代から心の支えであり尊敬するバンドの解散で、僕はこれから何を聴いて過ごせばいいんだ?って落ち込みまくり路頭に迷った。解散はいくつかの要因が推測されるけど、90年代初頭は先述のとおりジャパニーズ・ヘヴィメタル・ムーヴメントは完全に下降気味だったし、グランジやオルタネイティブ・ミュージックの台頭で世界的にもヘヴィメタルは時代遅れになっていて、たとえ良い作品を作ってもセールスやLIVEの動員が伸びなかった。ANTHEM自体、デビュー以来お世話になった伊藤政則率いるマリオネットミュージックから独立していて、バンドの運営やプロモート、会計業務など音楽を創作するだけじゃない活動にも疲弊していたんだと思う。ついに迎えた新宿の日清パワーステーションでの解散LIVEで僕は号泣。その後ろ姿が解散後発売されたLIVEビデオに写っている(笑)。

再結成直前の2000年夏、グラハム・ボネットをフューチャリングした「HEAVY METAL ANTHEM」リリースに伴う東名阪ツアーが行われた。ツアーファイナルの渋谷オンエアー2daysの2日目、あの日の熱気は今でも忘れない。1992年の解散直後、メンバーたちは様々な活動はしていたけど年を追うごとに名前を聞かなくなっていた。そんななか初代ヴォーカリストの坂本英三が「アニメタル」でメジャー復帰して大成功し、闇の中での活動を強いられていた80年代のヘヴィメタルバンドに再び光が差して来た。そしてメジャーのビクターよりリリースされたのが「ANTHEM featuring GRAHAM BONNET」という企画物だった。RAINBOWの元ヴォーカリストのグラハム・ボネットがANTHEMの代表曲を歌い新録されたアルバムは話題性もあったし、みんな久々のANTHEMを観たかったのと、ひょっとしてANTHEM復活か?の憶測や期待もあって渋谷オンエアーはまさに立錐の余地なし!仕事があってギリギリで会場入りした僕は会場の最後尾で壁にずっと背中が当たってるほどの客入りだった。このイベントで再結成の機運が一気に高まり、2001年の復活に至る。

再結成後の2005年夏、過去のメンバーが勢揃いした20周年アニバーサリーLIVEでは川崎公演にのみ天才ギタリストの中間英明が登場!過去のメンバーが勢揃いとは事前情報で公開されていたけど、中間の参加は発表されておらずかなりのサプライズで気絶しそうになった。メジャーデビュー後のANTHEMはヴォーカルが2人、ギターが3人、ドラムが3人入れ替わっているんだけど、それぞれのメンバーは ANTHEMでそこそこ長く活動してからの交代。でもこの中間だけは1990年2月から91年3月までの約1年という超短期間の所属。天才だけに自由奔放だったんだろう。規律を重んじるANTHEMには合うはずもなくアルバムで自らの音源を残すことなくツアーに参加するだけでバンドを去っていった。その後に若き天才ギタリストの清水昭男を見出したのでANTHEMは救われたけど、たった1年で中間脱退のニュースは当時のANTHEMの混迷ぶりの象徴だったなぁ。にしても中間の参加したアルバムも聴いてみたかったのも事実。LIVEでもその存在感はハンパはじゃなかったもん。それはそれはカッコよかった。その中間が十数年振りに僕らの前に現れたのが20周年アニバーサリーLIVEで、超満員のチッタのオーディエンスも色褪せない中間のヴィジュアルとプレイに魅了された。

そんな思い出ばかりのANTHEM。こうやって文字にしてみると本当に要のLIVEには必ずと言っていいくらい足を運んでいるなぁ。それゆえ35周年記念ライブツアーは楽しみで仕方なかったし、何せプロローグ公演と本公演は厳しい抽選の中でチケットをゲットしていただけにもうどうしましょう?って感じ。幸い延期の発表はあったけど中止の発表にまではなっていないから、コロナが終息すれば改めて日程が発表されるんだろうという希望的観測もあるが、あくまでもコロナが終息すればの話で.......。ああ、早くLIVEを観たいなぁ。(本文敬称略)

つづく〜

Leave a comment

すべてのコメントは公開前にモデレートされます